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それはまだ努力とは呼べない

25歳で大学1年生になった人の日常

男女差別は存在するのか-2

前回は家事の均一化についての議論を行った。戦後から続く女性の家庭での過ごし方、仕事量、その当たり前とされているプレッシャーに警告を鳴らすべく一人で活動している。

活動していることはそれだけではない。普段心掛けていることに会社での振る舞い方もある。会社の事務員の方、給与担当の方、福利厚生担当者、食堂でお昼ご飯を作ってくれる方、そのほとんどは「なぜか女性」である。私は妻を含め、その方たちにも毎日欠かさず挨拶をしている。ご飯を食べ終わりお皿とおぼんを片付けたあとは必ず直接出向き、今日もありがとうございました、みなさんのおかげでいつも美味しくお昼を食べれています、と嫌味ったらしくなく、自然に挨拶をし、自席に戻っている。そういうルールがある訳でもないし、誰に言われたからやっているとかではないことは念を押して綴っておく。もちろん、その女性たちは私のことなんか知らないし、ましてや名前すらも知らないし、そんなことをやっている人間は少なくとも弊社で見たことがない。

けれど、その何気ないお昼ご飯の日常中にこそ感謝は詰まっている。自分も特に意識してはいないが、勝手に体が動き、勝手に挨拶して伝えているだけである。その挨拶は職場が変わっても、大学でも、開発拠点でも続けている習慣だ。上記の女性たちに、勝手に習慣化されて勝手に挨拶しているので、その女性たちも快く挨拶してくれるし、反対に女性たちから苦手とされるお局さんには大変好感を持って頂ける。勝手に挨拶して勝手にやっていた行動は、いつの間にか窮地に立たされた自分を時に救ってくれたり、他の人よりこっそりご飯を大盛りにしてくれたり、「いつもご飯ありがとうございました!」の返事がいつの間にか「いえいえこちらこそいつもありがとうございます、そういえば穴が空いて破れたボロボロのあなたの靴下は、いいかげん買ったの?」なんてコミュニケーションに変わっていく。この小さな気遣いこそが、みんなが素通りして疎かにしがちな女性への配慮である。特に食堂で何気なく並び、ご飯を取り、ご飯を用意するのは女性なんだから挨拶しなくていいだろ、お前なにやってるんだよなんて嫌な目で見てくる「大人」なんて無視して、そんな「ふつう」を感じた無言でスタスタ歩いている人間が99.9%を占める弊社はまったくもってこの配慮に欠けている。これが3流会社たる所以なんだろうと恥ずかしいながら毎日思っている。

大学ではどうだったかといえば、私の尊敬する同期であり戦友のMTさんは毎回挨拶していた。その彼は日本を代表する企業で働いている。そういう細かい気遣いができるから1流にいるのか、会社が1流だからそうなるのか、いつまでもわかるないものです。会社名で人の価値なんて決まらないだろって話ですが、一人一人の「自力」は大きく違うようだ。

話は逸れたが、普段の生活や会社員生活で、みんながスルーしがちな、というかみんながスルーしている「当たり前」のことをする、それが働く女性スタッフへの感謝であり、小さなところだとご飯を配膳してくれるところだ、という話である。そしてそれを積み重ねると、妻やお局さんからはきっと信頼が生まれるだろう。人を陥れてまで出世したいとか、評価してくれる上司が絶対でゴマを擦り続けるとか、そんな人には一生わからない「ふつう」なんだろう。